
北インドの仏教聖地を巡る旅/2026年3月
チベットとチベット仏教に関する記録
インドの仏教にまつわる記録
インド仏教遺跡の紀行
仏教を国の指針とするブータン紀行
インドの宗教に関する動画集
深海の底に眠る過去の記録に光を当てる。揺り起こす。

北インドの仏教聖地を巡る旅/2026年3月
チベットとチベット仏教に関する記録
インドの仏教にまつわる記録
インド仏教遺跡の紀行
仏教を国の指針とするブータン紀行
インドの宗教に関する動画集
ことあるごとに、歴史は知っといたほうがいいと言い続けて幾星霜。年を重ねるほどに、その重要性を実感する。わたしは学生のころ、大して勉強しなかった。歴史もほとんど関心がなかった。しかし、社会人になった1988年。初めての海外取材で台湾を訪れることになってから、異国の歴史や伝統、文化を学ぶことの重要性を痛感した。ガイドブックを編集するに際しては、知っておくべき出来事があまりにも多かった。
関わる国の歴史や文化、習慣を、最低限でも知っておくと、世界を「視る目」が変わるし、自分のためにもなる。勉強にせよ、趣味にせよ、結婚にせよ……。ごく限られた自分の経験や、浅薄な知識で、事象を一刀両断することの危険性も同時に悟る。
インドにおいては、各種セミナーを実施しているわたしではあるが、遍くテーマにおいて「広く浅い知識」であり、専門家の見識には遠く及ばぬ。それでも、偏りなく、自分の知ることをできるだけ、周囲に伝えたいと思う。
図書館などへ足を運び、「紙の情報」を収集していた時代に比べれば、インターネットのおかげで時間がかからなくなった。しかし、情報の質が上がったとはいえず、適切な記述を取捨選択をするのは難しい。ソース(源)の見極めが問われる。特に、出自の不明な浅薄で断片的な情報があふれている昨今の世界にあっては。
毎回、セミナーをするたびに、資料を洗い直す。ガンディにせよ、アンベードカルにせよ、調べるたびに、新たな史実が芋づる式に出てくる。その都度、人物像に彩りが添えられる。人間ひとりひとりの生き様に、たやすく白黒付け、評価することの恐ろしさも思う。
ガンディという偉人も、アンベードカルの立場から見るとまた、異なる人物像が浮かび上がる。史実は複数の視点から眺め、考察すべきとの思いを痛感する。
🖋
難しいながらも、同時に、調べる作業は本当に楽しくもある。たとえば、この資料にあるチャップリンの『モダン・タイムス』などはその顕著な例。ガンディの資料を整理しながら、「ひょっとして、チャップリンはガンディの影響を受けているのでは……?」と閃いた。調べたところ、ビンゴ! チャップリンはガンディに会っていた!
こういう勘が当たると、楽しさが増す。
知らないことは、知らないとの自覚を肝に据え、他者の生き様に謙虚であれと、知れば知るほど、そう思う。
*映画『Ghandi』は、インド・パキスタン分離独立前後のインドを知る上でもお勧め。ちなみに複数あるので、ベン・キングズレーが主演の方を見ていただきたい。実は彼、先祖はインドのグジャラートからザンジバルに移住した香辛料の貿易商。本名は、クリシュナ・パンディット・バンジ(Krishna Pandit Bhanji)と、こてこてにスパイシーなお名前。
クイーンのフレディ・マーキュリー同様、インド出自であることを隠していたが、この映画のヒットで、インド人であることがむしろ、大いにアピールされる結果となった。ちなみにパールシー(ゾロアスター教)出自のフレディ・マーキュリーの本名はファルーク・バルサラ。彼はザンジバル生まれ。
🇮🇳DASTKAR Nature Bazaar/ 手工芸品に息づくマハトマ・ガンディの精神など(2019/07/06)
https://museindia.typepad.jp/2019/2019/07/gandhi.html
🇮🇳本日、10月2日は、マハトマ・ガンディの誕生日だ。写真の資料は、坂田がセミナーで使用するために作成したものの一部。詳細に関心のある方は、ぜひ「インド・ライフスタイルセミナー必修編①〜⑤」をご覧いただければと思う。
【インド・ライフスタイルセミナー】
●パラレルワールドが共在するインドを紐解く/セミナー動画
①多様性の坩堝インド/多宗教と複雑なコミュニティ/IT産業を中心とした経済成長の背景/現在に息づくガンディの理念
②「広く浅く」インドの歴史(インド・パキスタン分離独立)/インドの二大政党と特筆すべき人物/テロが起こる理由とその背景
③明治維新以降、日本とインドの近代交流史〈前編〉人物から辿る日印航路と綿貿易/からゆきさん/ムンバイ日本人墓地/日本山妙法寺
④明治維新以降、日本とインドの近代交流史〈後編〉第二次世界大戦での日印協調/東京裁判とパール判事/インドから贈られた象/夏目漱石
⑤ インド国憲法の草案者、アンベードカルとインド仏教、そして日本人僧侶、佐々井秀嶺上人
🇯🇵今年も8月がきた。日本を離れて28年間。わたしは一度も8月の日本に帰国していない。故国の盛夏の記憶は彼方になれど、毎年毎年、同じようなことを、綴り続ける。大切だと思うことは、何度でも、同じことを訴え続ける。
異国に暮らし、異国を旅するにつけ、なるたけ偏りの少ない視点から、歴史を学ぶことの大切さを実感する。学生時代、日本史にも世界史にも大して関心を持たなかったわたしが、しかし社会人になり、海外旅行のガイドブックを制作する編集者になってからというもの、紹介する国の背景について、学ばざるを得ない状況になった。
初めての海外取材は台湾だった。そして、シンガポール、マレーシア……。どの国にも大東亜共栄圏の面影が残り、第二次世界大戦が身近にあった。
あの初めての海外取材から36年。訪れた国は、多分40カ国を超えているが、どこを訪れるにしても、その国の歴史や文化、イデオロギーなどの背景を知ることが大切だと実感する。背景を知らずして、現在を知ることはできない。
軽やかな観光の楽しみ方を否定するわけではない。しかし、食文化にせよ、芸術にせよ、ライフスタイルにせよ、背景を知ると、よりその国を深く理解することができ、同じ対象を見るのでも、感じ方が大いに異なる。
さらに言えば、その国に暮らすことになったら、あるいはビジネスをすることになったら、表層的な理解だけではすまされない。
インド生活が19年目となった今なお、この広大無辺の国インドをはじめ、国々の歴史に学ぶことの多い日々。
ここ数年のセミナーでは、特に若い世代の人たちに向けて、せめて明治維新以降156年の日本の歴史、概観を、学んでおく方がいいと伝えている。無論、わたし自身、まだまだ勉強不足で、これから学ばねばならないことも多々あるのだが……。
……ここでは、8月6日という日に因んでの、過去の記録を以下、転載する。今からちょうど20年前に米国のスミソニアン航空博物館を訪れたときのこと、そしてちょうど10年前に、改めて思うこと綴った記録だ。
🙏8月6日。広島に原爆が落とされた日。 まずは2014年の記録を転載。
ワシントンD.C.に住んでいたころのこと。2004年2月、完成してまもないスミソニアン航空博物館(スティーブン・F・ウドヴァーヘイジー・センター)を訪れた。スミソニアンの博物館群は、ワシントンD.C.市内にあるが、2003年12月、この別館が、ワシントン・ダレス国際空港の近くに新設されたのだ。特に航空機に関心があるわけでもないわたしが、オープンしたばかりのそこに足を運んだのには、理由があった。
エノラ・ゲイを、見たかったのだ。
レプリカではない。広島に原子爆弾「リトルボーイ」を運び、投下したB-29、エノラ・ゲイの「実物」だ。
あの日、目にした光景は、受けた衝撃は、未だに鮮明だ。以来、毎年この日になると、あのとき記した言葉を、そのままブログに転載してきた。今年もまた転載する。ただし、今年は今までとは違って、少し書き加えておきたいことがある。
実は先日、百田尚樹の『永遠のゼロ』を読んだ。戦地からひたすら「生きて帰ること」を望み続けていた、一人の優秀な兵士(戦闘機搭乗員)の話である。死なないために、特訓を重ね、神業のような操縦技術を身につけていた彼が、なぜ終戦間際に特攻隊員として死したのか。その一人の男の生き様を、生き延びた戦友らの証言からたどっていく物語だ。
第二次世界大戦にまつわる史実などの描写については、すでに知っている事柄も多々あったが、初めて知って驚くことも多かった。たとえば、神風特攻隊が乗り込んだ戦闘機が「桜花」という名前であったこと、そしてその自爆のための飛行機が、連合国側から、日本語の「バカ」にちなんで、BAKA BOMB(馬鹿爆弾)というコードネームで呼ばれていたことなど。馬鹿爆弾……。思うところ多く、ともあれ、下記に転載する。
なお、太字による文章は、2014年に加筆した部分だ。
●エノラ・ゲイ (FEBRUARY 27, 2004)
思いがけぬほど、その飛行機は大きく、そして美しかった。
そうして、醜くも、忌々しくもなかった。
そのことが、何よりも、衝撃だった。
澄み渡った青空のただ中を、太陽の光をキラキラと反射させながら、
この銀色の飛行機は、飛んだだろう。
そうして、胴体をぽっかりと開いて、新しい爆弾を落とし、
そうして、夥しい数の人々を、燃やしただろう。
あの朝の、空の下の風景を、ここでは知る術もなく、
多分知ろうとする人もなく。
ただ、この飛行機は、半世紀を経て、ナチスの戦闘機や、
日本の戦闘機を睥睨するように。
愛らしいほどの、神風特攻隊の、小さな戦闘機などを。
●エノラ・ゲイを見た。(2004年3月発行のメールマガジンより転載)
夫のオフィスはヴァージニア州のレストンという街にある。DC郊外の、新興ビジネスタウンだ。新しいオフィスビルやアパートメントビルが次々に立ち、ここ数年のうちにも、レストランやショップなどが軒並みオープンしていた。
さて、先週の金曜日、夫が通勤する車に乗って、わたしもレストンへ行った。夫をオフィスでおろしたあと、そのまま車でショッピングモールなどに出かけ、買い物をしようと思ったのだ。買い物の合間、思い立って、スミソニアンの航空宇宙博物館に立ち寄ることにした。
そもそもスミソニアンのミュージアム群は、ワシントンDCの町中、連邦議会議事堂やワシントン記念塔などの観光名所がある「モール」と呼ばれるエリアにあり、航空宇宙博物館もそこにある。
ただ、展示品が大きいだけに、多分、モールの館内ではおさまらなくなったのだろう、去年の末、ヴァージニア州にあるダレス国際空港のそばに、巨大な「別館」が完成したのだ。
この航空宇宙博物館については、ご存じの方も多いだろう。ここには復元された「エノラ・ゲイ」が展示されているのだ。日本のメディアでもたびたび取り上げられていたのを目にした。広島県被爆者団体協議会の人たちが渡米し、地元の平和活動家らと共に抗議運動をしたとの記事も、インターネットで見た。
わたしは、もちろん戦後生まれだが、戦争教育はしっかりと受けてきた世代だ。夏休みの登校日には、必ず戦争に関する話を聞かされたり映画を見せられたりした。家族に戦争体験を聞くという夏休みの宿題もあった。
福岡大空襲を経験した担任教師の話も、臨場感があって、とても怖ろしかった。他の授業のことは忘れていても、先生が、防空頭巾を被って焼夷弾の雨をくぐり抜け、溝の中に命からがら避難したという話は覚えている。
「原爆の歌」(ふるさとの町焼かれ、身よりの骨埋めし焼け土に……)とか、「夾竹桃の歌」(夏に咲く花、夾竹桃…… 空に太陽が輝く限り、告げよう世界に原爆反対を)とかいう歌は、今でもしっかりと覚えているくらい、繰り返し歌わされた。
あまりに戦争の話が怖ろしくて、子供のころは夏の入道雲や青空を見るたびに、自分が戦争を体験したわけでもないのに、底なしの恐ろしさや虚無感に襲われることがあった。
体験したことのない戦争だけれど、自分の国(日本)の痛ましい歴史の断片は、確かに刻み込まれているような気がしていた。
ハイウェイをはずれ、わざわざそのミュージアムへアクセスするために施工されたらしき、真新しい道路を走った先に、そのミュージアムはあった。駐車場代だけで、一台につき、12ドルも払わされた。まずはそのことに驚いた。
アメリカの、こんなに土地の有り余った場所で、駐車場代を12ドルも払うとは。無論、スミソニアンのミュージアムそのものは無料だから、多分道路の工事費とかそういうものの赤字を埋めるための、それは駐車場代だろうとも思った。
広大な駐車場の向こうに、巨大なメタリックの建物が、青空に映えて美しい。上空ではダレス空港に飛来する飛行機が行き来している。わたしは、少し身構えるような心持ちで、車を降り、エントランスへ向かった。
エノラ・ゲイ。
わたしの想像の中で、その飛行機は、忌々しく、醜いはずのものだった。罪なき十数万人の命を一瞬にして奪った、残酷な飛行機。それをこれから見るのだと思うと、胸の鼓動が高まった。案内のパンフレットを受け取り、その広大な展示場に出る。
第二次世界大戦のコーナーは、入館してすぐの場所を占めていた。そこで、ひときわ大きく、格好のいい銀色の飛行機が目に飛び込んだ。尾翼に大きく「R」の文字があり、胴体に「82」という数字と星印がある。
その大きな飛行機の周辺に、主翼に日の丸のある日本の戦闘機が数機と、それからナチスのマークが入ったドイツの戦闘機などが展示されているのが見える。
「1941年、日本軍による真珠湾攻撃を機に、米国は第二次世界大戦に参戦した……。」そういう文章で始まる案内を一通り読んだあと、まずは日本の戦闘機を眺める。
※スミソニアンのサイトを調べていて、この戦闘機が、『紫電改』という名であったことを知った。この名前は『永遠のゼロ』を読んで初めて、戦闘機の名前だったということを知った。零戦と並ぶ有名な戦闘機だったらしい。
カネボウ化粧品が「紫電改」という名の育毛剤を発売したとき「変わった名前だな」と思ったが、まさか戦闘機の名をさしているとは、思わなかった。個人的に、受け入れ難い、センスだ。
翼が極端に小さく、飛行機と言うよりは、まるでミサイルみたいに小さな「クギショー」と言う名の戦闘機があった。
それは特攻隊の乗っていたものだという。説明書きには、「終戦までに5000人のパイロットが特攻(Tokko Attack) によって戦死した」と記されている。
※これもまた、『永遠のゼロ』を読んでわかったのだが、この戦闘機の名前は、クギショーではなく「桜花(Ohka)」であった。なお、Kugishoとは、海軍航空技術廠の略、「空技廠」のことらしい。
「機首部に大型の徹甲爆弾を搭載した小型の航空特攻兵器で、母機に吊るされて目標付近で分離し発射される」「いわゆる人間爆弾である」と、wikipediaには紹介されている。
さて、エノラ・ゲイはいったいどの飛行機なのだろうと、コーナーをぐるりと回り込んで、息をのんだ。
最初に目に飛び込んできた、あの銀色の飛行機の操縦席近くに、「ENOLA GAY」という文字が記されているではないか。
これが、エノラ・ゲイ?
わたしは、非常に混乱した。
なぜなら、エノラ・ゲイは、醜くも忌々しくもなく、むしろそれは、美しく、格好のいい飛行機だったからだ。しかもそれは、想像していたよりもはるかに大きい。
それは、このミュージアムの大きな目玉、といってもいいほどの存在感だった。勝手に小さな戦闘機を想像していたわたしは、ともかくその大きさにも驚いた。
エノラ・ゲイのそばには、他の航空機にあるのと同様、その機体名と概要、スペックなどが記された説明書きがあった。
Boeing B-29 Superfortress Enola Gay
このB-29というタイプの飛行機が、太平洋戦争でいかに活躍した優秀な航空機であったかが記されている。
そして、1945年の8月6日、この飛行機が最初の核兵器を日本の広島に投下したこと、その三日後に、同じ機種のBockscarと名付けられた戦闘機が、日本の長崎に二つ目の核兵器を投下したこと、そしてそのBockscarは、オハイオ州デイトン近くの航空宇宙博物館に展示されていること、などが記されていた。
原子爆弾によって広島の一般市民が何人死んだかは、記されていなかった。
わたしはエノラ・ゲイの間近に迫り、下から見上げた。全身をジェラルミンで覆われた、軽量で丈夫な飛行機。わたしは、その胴体のあたりを見つめた。あそこの扉が開いて、原爆が投下されたところを想像してみた。
しかし、ずいぶん昔、白黒写真で見たことがあったはずのB-29と、目の前にある飛行機とが、どうしても結びつかなかった。
呆然とした気持ちのまま、今度は階上にあがり、至近距離で操縦席を見た。中の様子が、見えすぎるほどにくっきりと見えた。説明書きによれば、広島に飛んだとき、12人の兵隊が乗っていたという。その様子を想像してみたが、うまくいかなかった。
わたしは、エノラ・ゲイを見た瞬間、自分は憎しみや悲しみに襲われるかもしれないと思っていた。でもわたしは、その機体を見て、それを美しいと感じた自分に、驚き、困惑した。
わたしの周りでは、年輩の男性たちが、熱心にエノラ・ゲイを見ていた。ベテラン(退役軍人)たちだろうか。
エノラ・ゲイを見たら、もう、あとはどうでもよくなった。エール・フランスのコンコルドとか、フェデックスの古い貨物輸送機とか、パンナム航空の飛行機などが展示された商業用航空機のコーナーを横目で見ながら、出口へ向かった。
ギフトショップには、エノラ・ゲイのプラモデルや模型さえもが、売られていた。
わたしは、日本の被爆者団体の人たちの訴えも、平和運動家の訴えも、至極もっともだと思っていたし、共感もしていた。
あの夏の朝、このエノラ・ゲイは、広島の青空を、太陽の光をきらきらと反射させながら飛んでいただろう。それが新型原子爆弾というものを落としさえしなければ、それは、きらきらと、優美に飛来する一機の飛行機に過ぎなかった。
あの日、この飛行機が落としていったおぞましいものの引き起こした惨事を体験している人にとっては、どうしたって、これは忌々しい物体に違いない。けれどわたしは、この飛行機を見ても、憎悪の念が浮かび上がりさえしなかった。
飛行機には罪がない。
当たり前のことだけれど、飛行機には何の罪もないのだ。それは「罪の象徴」かも知れないけれど、でもやはり、罪そのものではない。そのことが、実際に、こうして自分の目で見て初めてわかった。罪は人間が創り上げるものであって、人間の中にある。
核兵器がどんなにおそろしいものか、戦争がどんなに悲しいものか、その避けがたい諍いを、いったいどうすれば避けられるのか、それはいつの時代も、誰かが必ず、問い続けなければならない問題だと思う。さもなくば、世界は、戦争に満たされてしまう。
しかし、この航空宇宙博物館に、原爆被害の展示をするというのはまた、微妙なずれを感じた。航空宇宙の技術や進歩を展示するこの場所において、戦争の被害を展示すると言うことに。
わたしは何か、間違ったことを書いているかも知れないが、これが本音だし、正直な感情だ。
しかし、さておき、エノラ・ゲイは展示されて然るべきであると思う。けれど、エノラ・ゲイがさも、「第二次世界大戦にピリオドを打った英雄」として在るのは、やはり許し難い。
日本は、世界で唯一、原爆の被害を受けた国であると同時に、敗戦国であり、敗戦した国の言い分が、戦勝国において全面的に受け入れられ、正統化されることは、ほとんどあり得ないことのように思われる。
では、いったいどうすれば、核兵器の恐ろしさを、客観的に人々へ伝えることができるのだろう。
この際、日本が「軍事兵器博物館」でも作ればいいのだ。もちろん、現物を展示することはできないだろうから、模型などを展示して、軍事兵器の技術や進歩を見せると同時に、それらの兵器によって、どれほどの人々が、どういう殺され方をしてきたか、を伝えるような博物館。
今、イラクで行われている戦争で使われている兵器や、それらがイラクの人々に与え続けている影響についても、一目でわかるような。
しかし、今、書いているだけで、そら怖ろしい博物館になりそうだと思う。子供が見たら、トラウマになるかもしれない。そうならないように、恐ろしさを伝える方法は、ないだろうか。
ともかく、エノラ・ゲイを見て、わたしは困惑している、ということを、考えのまとまらないまま、しかし今の心境を、ここに書き記しておく。
スミソニアン航空博物館 Smithonian National Air and Space Museum
➡︎https://airandspace.si.edu/
エノラ・ゲイ Boeing B-29 Superfortress “Enola Gay” 内部、外観合わせて53枚もの写真が掲載されている。
➡︎https://airandspace.si.edu/collection-objects/boeing-b-29-superfortress-enola-gay/nasm_A19500100000
Kugisho MXY7 Ohka (Cherry Blossom) 22 特攻隊が乗ったクギショー。着陸することがないから車輪がない。
➡︎https://airandspace.si.edu/collection-objects/kugisho-mxy7-ohka-cherry-blossom-22/nasm_A19480180000
Kawanishi N1K2-Ja Shiden (Violet Lightning) Kai (Modified) 紫電改。零戦と並ぶ戦闘機。
➡︎https://airandspace.si.edu/collection-objects/kawanishi-n1k2-ja-shiden-violet-lightning-kai-modified-george/nasm_A19830237000
戦争反対を叫ぶなら、戦争がどのような状況だったのか、ということを知ることも、大切だと思う。戦争が美化されている云々の意見はさておき、靖国神社の遊就館は、訪れるべき場所のひとつだと、わたしは思っている。
ステロタイプの意見に惑わされず、まずは自分の目で確かめて、感じて、自分の考え方を、自分なりに、生み出すべきだ。他人の意見に便乗するのではなく。
情報が手軽に入手できる現代だからこそ、自分の感性、感覚を研ぎすまし、身体を動かして、肌身で経験することを、厭うべきではないだろう。
【2013年11月/靖国神社を訪れたときの記録
靖国神社には、東京で暮らしていたころに、一度、ふらりと訪れたことがあった。そのときのわたしは、今に比べ、思うところ浅く、祈るところ浅く。
日本を離れ、年を重ね、客観的に母国を見るにつれ、そして歴史の断片を学ぶにつれ、他国に干渉される不条理と不愉快。
今日、きちんと手を合わせ、参拝できて、本当によかった。
参拝後、立ち寄った遊就館の、その展示の充実ぶりに、驚かされた。ここでは詳細に触れぬが、ともあれ、日本人であれば、見ておくべき、知っておくべきものが、たくさん詰まっていた。1時間程度ではとても消化できない展示の数々である。
いつかまた改めて、ゆっくりと時間をかけて、学ぶために、知るために、訪れたいと思った。
なお、東京裁判(極東国際軍事裁判)において、被告人全員の無罪を主張したインド人のパール判事の顕彰碑は、2005年、ここに建立されたという。
石碑の文字を目で追いつつ、彼の情念が、胸に迫る。
歴史をもっと、きちんと、学ばなければと、今更のように思う。ともあれ、遊就館で購入した図録を、まずはじっくり読もう。
🇯🇵靖国神社➡︎ https://www.yasukuni.or.jp/
🇯🇵遊就館➡︎https://www.yasukuni.or.jp/yusyukan/
🇮🇳ラダ・ビノード・パール ➡︎https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB
〜インド帰国後の追記〜
遊就館の展示に関しては、ときを改めてじっくりと、一日かけて巡りたいと痛感した。折しも行われていた大東亜戦争七十年展がまた印象深く、ゆっくりと時間を取れなかったことが悔やまれるほどだった。
米国のスミソニアン航空博物館で、日本の零戦やエノラゲイを見たときの話は、過去にも記した。ゆえに、零戦の展示については、さほどの衝撃を受けはしなかったが、人間魚雷と呼ばれた「回天」を目の当たりにしたときには、あまりのむごさに、泣けた。
海底深く、こんなものに押し込められて、自爆を強いられた若者ら。どれほどに辛かったことであろう。
無数の展示の中にあっては、ほんの一隅ではあったが、インドを舞台に展開された「インパール作戦」に関する事項も見られた。いつか必ず、コヒマにある日本兵の慰霊碑を訪れたいと思いつつ、幾星霜。
●パラレルワールドが共在するインドを紐解く/セミナー動画
①多様性の坩堝インド/多宗教と複雑なコミュニティ/IT産業を中心とした経済成長の背景/現在に息づくガンディの理念
②「広く浅く」インドの歴史(インド・パキスタン分離独立)/インドの二大政党と特筆すべき人物/テロが起こる理由とその背景
③明治維新以降、日本とインドの近代交流史〈前編〉人物から辿る日印航路と綿貿易/からゆきさん/ムンバイ日本人墓地/日本山妙法寺
④明治維新以降、日本とインドの近代交流史〈後編〉第二次世界大戦での日印協調/東京裁判とパール判事/インドから贈られた象/夏目漱石
⑤インド国憲法の草案者、アンベードカルとインド仏教、そして日本人僧侶、佐々井秀嶺上人
◉ターミナル2の全容/Terminal 2 (T2) at BLR Airport – The Film
◉ターミナル2オープニングの式典
https://youtube.com/shorts/W-UCKS6kIiQ?si=7uwjIgVxOrIxF-kJ
◉水資源/Namma Jala – BIAL’s CSR initiative to develop water resources in the vicinity of BLR Airport
◉教育/The Moodies 2020 – Winner Best CSR Campaign: Bangalore International Airport Limited
◉職業支援(女性の消防団)/Bangalore Airport’s ARFF Women FireFighters
◉伝統と芸術/Hari Marar, MD & CEO, BIAL speaks on Art at BLR Airport
◉サステナビリティ/BLR Airport wins the ‘Most Sustainable Initiative Award’
わたしは、国際線の空港が持つ、独特の空気が好きだ。わたしが初めて日本を離れ、太平洋を越えて米国の西海岸に飛んだのは20歳の夏だった。大学で日本文学を専攻していた当時のわたしは、将来、故郷の福岡で「高校の国語教師」になるつもりだった。一方、子どものころから、海外への憧憬が強かった。絵本や子ども百科、西洋絵画全集を眺めては、まだ見ぬ世界に思いを馳せた。
1985年8月。わたしのライフは、「コペルニクス的転回」を遂げる。ロサンゼルス国際空港に降り立った瞬間の、途轍もない開放感! 肌色もさまざまに、行き交う人の風貌の、体格の、豊かさ! 空港の外に出れば、爽やかな空気、突き抜ける青空。スーツケースを運ぶポーターのお兄さんの大きな躯体と大きな靴……!
カリフォリニアで1カ月のホームステイを体験したその夏、わたしは生まれ変わった。囚われや固定観念が洗い流され、針路が海外を指した。紆余曲折を経て、卒業後は海外旅行誌を制作する東京の編集プロダクションに就職。そこから、わたしの旅する人生が始まったのだった。
スーツケースを携えて空港を歩くときには、背筋がピンと伸びる。旅への期待と緊張感が入り混じった独特の感傷が心地よい。脳裏に流れる旋律は、『白い港』(by 大滝詠一)。
♪スーツケースくらい、自分で持つと……君はいつも強い女だったね……♪
わたしはいつまでも、旅を続けたい。自分のスーツケースを、自分で持ち続けたい。
東京でフリーランスのライター兼編集者をしていたわたしは、日本を離れる少し前、江戸川区西葛西に引っ越した。理由は「成田国際空港に近いから」だった。
2013年。バンガロールでの「終の住処」を見つけるべく、物件探しを始めたときも、エリアは空港界隈に絞った。無論、当時は、2008年に移転したケンペゴウダ国際空港(ベンガルール国際空港)があったものの概ね僻地だった。しかし、やがて利便性の高い場所になると確信していた。
当時は、周囲にぶどう畑が点在する、広大な更地だったこの場所。Total Environment という開発会社が、「After the Rain」というゲーテッド・コミュニティを建設する予定だった。更地に立ち、周囲を見渡し、風を感じ、設計図やコンセプトを精査した。レンガや木、石など天然の建材を使い、自然と調和した、環境を尊重する建築様式を、心から気に入った。
ケンペゴウダ国際空港を運営するBIALのCEOであるHari、そして彼の妻である、昨日の投稿で紹介したYashoの家族は、偶然にも「After the Rain」に住んでいる。我が家が引っ越しのプジャー(儀礼)をした際にも立ち会ってくれた。
先行き不透明で、鬱々としていたCOVID-19ロックダウンのころ。ソーシャル・メディアなどを通して、Hariからの空港再開のメッセージや、空港が万全な感染対策を講じて乗客を安全に導いているとの記事を目にしたときには、言葉にはし難い安心感と希望を感じた。
そんなパンデミック下において、バンガロールの新空港「ターミナル2」の工事は進められてきた。昨年、竣工前にYPO(グローバル組織)のメンバーたちと内部を見学したときのことや、開港式典の様子は、わたしのソーシャルメディアで克明にレポートしている。今なお、工事は進行中だが、先月には国際線ターミナルもオープンするなど、着実に進化している。
先日、航空ジャーナリストの日本人の知人から、旅行でバンガロールにいらっしゃるとの連絡を受けた。ぜひ「ターミナル2」を取材してほしい(もちろん自分も同行で!)と思い、Hariに連絡をしたところ、諸々の手筈を整えてくれたのだった。思いがけないバンド(ジェネラル・ストライキ)により日程変更したものの、無事に先週木曜日、取材することができた。
PR担当者の丁寧な案内を受けつつ、国内線、国際線、双方のターミナルを見学。すでに空港のコンセプトは学んでいたが、新たに知ることも多く興味深い。最後にHariのオフィスでインタヴューをさせてもらい、充実の数時間を過ごしたのだった。オフィスのエントランスには、実物を見たいと思っていた友人Tanyaの作品が飾られている。彼女の世界観が好きすぎる💝
子どもの頃からシュールレアリズムなアートが好きなわたしは、彼女の描く世界も大好きなのだ。彼女たちの家族もまた「After the Rain」に新居を建設中。しかも、我が家の真向かい! これはもう偶然の域を超えている。
取材を終えて、オフィスビルの屋上へ。空を仰げば、After the Rain. 雨後の虹! なんという清々しさ!
空の玄関口である国際空港とは、その都市の現在、そして未来を映す極めて大切な場所だ。「わたしが知る限りにおいて」、世界で最も魅力的なこの新空港「ターミナル2」が、わたしにとっての「おかえり」「ただいま」の地であることが、とてもうれしい。
HariとYashoに出会え、空港の背景を学び、こうして「日本語で」伝えられることを光栄に思う。今回の取材に際してサポートしてくださったスタッフ各位にも感謝したい。空港の様子は、別途改めて、レポートを残す。
◉『深海ライブラリ』ブログ/ターミナル2に関する記録
https://museindia.typepad.jp/library/terminal_2/
先日のデリー旅から戻った翌々日は、ほぼ毎週火曜日開かれている、わたしが所属する「女性の勉強会」の会合の日だった。この日は、わたしがお招きしたスピーカーに登壇していただくこともあり、ヤラハンカの新居を会場にして実施した。
以前から、個人的にお聞きしたかった、とても大切なテーマにつき、ゆっくりと記録を残したいと思いつつ……歳月は瞬く間に流れる。
スピーカーは、チベット系インド人である我が友人Dekyiと、その父君のT T Khangsarだ。
わたしがDekyiと出会ったのは2017年。夫同士はすでに知り合っていたが、わたしとDekyiがゆっくり言葉を交わしたのは、4人で日本料理を食べに行った時のことだった。わたしはそのとき、チベット系インド人であるDekyiのバックグラウンドを聞き、強い衝撃を受けた。
わたしが2019年、ダラムサラを訪れ、ダライ・ラマ法王14世にお会いすることができたのは、すべて彼らのおかげである。その旅記録も克明に残しているので、関心のある方はぜひ、下記リンク『深海ライブラリ』ブログをご覧いただければと思う。
Dekyiは、ここカルナータカ州のマイソールで生まれ、バンガロールに育った。しかし、チベットの貴族の家系に生まれた父T T Khangsarやその両親の物語は、波乱に満ちたものだった。中国によるチベット侵攻によって、彼らのライフは、他のチベット人と同様、翻弄された。
緑豊かで自然美にあふれるチベット東部のトンコール・カムで、貴族の家系に生まれたKhangsar。6歳でチベット仏教に身を捧げ、修道生活を始める。子ども時代の平和な暮らしは、しかし1959年の、中国によるチベットに侵攻で破壊される。Khangsarの家族は、高貴な身分だったことから、彼は父親を目の前で惨殺されるなどの悲劇に直面した。
その後、彼は残された家族と共に、14歳で祖国を脱出、危険な山々を越えてインド北部に避難した。インドのカリンポンで、ゲルク派のタントラ僧院大学を卒業した後、南インドのポンディシェリで哲学とサンスクリット語を研究。その後、オランダの大学に進み、MBAを取得した。当初は、大学レベルの科目はほとんど理解できなかったにもかかわらず、絶大なる努力の結果、優秀な成績で卒業。勉強だけでなく、ラグビーにも熱中し、心身ともに精力的で活発な青年だった。
1970年、彼はダライ・ラマ法王14世とチベット亡命政府により、インド政府との連絡役を任される。さらには、南インド最大のチベット人居住区「バイラクッペ(バイラクーペ)」の設立支援を命じられる。以降、彼は、チベット人コミュニティのために尽力し続けており、Dekyiもまた、父の偉業を受け継ぎながら、貢献活動を続けている。
🇮🇳
勉強会の日、上記の概要に沿いながら、Dekyiの補足説明と共に、父君が半生を語ってくださった。悲喜交々のエピソードの、ひとつひとつが、心に染み入る。いつも朗らかでやさしく、穏やかな笑顔で接してくださる父君に、改めて深い敬意を抱いた。
国家間の軋轢によって祖国を失った人の気持ちは、思いを馳せるに到底、理解が難しい。
インドの多様性と寛容と、個人の尽力の偉大な影響力などに思いつつ、書き残したいことは尽きぬ。以下、関連情報をシェアしたい。
【関連情報】
🙏ダライ・ラマ法王14世にお会いした2019年のダラムサラ紀行を紐解く(2021/12/03)
https://museindia.typepad.jp/library/2021/12/dharamsala.html
🙏遠く故国を離れて。南インド。チベットの人々が暮らす場所。(2010/6/9)
https://museindia.typepad.jp/library/2010/06/bylakuppe.html
🇺🇸[コチ=ムジリス・ビエンナーレ]CIAが関与した知られざるゲリラ戦。中国に寝返った米国。祖国奪還を目指して戦ったチベット人兵士たちの悲痛な末路……(2023/02/03)
https://museindia.typepad.jp/2023/2023/02/kochi13.html
Born into an aristocratic lineage of Tongkhor Kham, in the eastern region of Tibet, T T Khangsar was chosen for a spiritual path at the tender age of six. Devoting himself to Buddhist scriptures, he embarked on a monastic life in adherence to Tibetan tradition.
This peaceful existence was violently disrupted in 1959 when China invaded Tibet. Because of their noble status, Khangsar’s family faced dire consequences, including the brutal loss of his father. At the tender age of 14, Khangsar had to flee his homeland, undertaking a perilous journey through treacherous mountains to find refuge in northern India.
Here in India, Khangsar initially studied at Kalimpong and then graduated from the Gelugpa Tantric Monastic University before heading to Pondicherry, South India. He furthered his studies there, delving into philosophy and Sanskrit.
But Khangsar’s academic journey didn’t stop there. He moved to the Netherlands in 1968 to pursue an MBA at Nyenrode University. Despite starting with a limited understanding of college-level subjects, Khangsar’s relentless dedication led him to graduate with honors. Apart from academics, he also developed a love for rugby, demonstrating his vigor both on the field and in the classroom.
In 1970, Khangsar’s academic accomplishments led His Holiness the Dalai Lama and the Tibetan government-in-exile to personally invite him to assist in liaising with the Indian government. His task was to help set up the largest Tibetan settlements in South India, a critical mission that Khangsar undertook with commitment. With his international degree and deep-rooted determination, this resilient scholar from a Tibetan aristocratic family committed himself to serve his community and contribute positively to their future.
バンガロールは、モンスーンを経て、このところ蚊が増えています。当地に限らず、インド各地でデング熱が流行り始めているようです。
「デング熱」は他人事ではありません!
我々夫婦は、2015年に罹患しました。その年は、我が家界隈に「デング熱ウイルスを持つ蚊」が大量発生していたようで、ご近所さんも複数名、入院しました。
日本人とて、例外ではありません。かつて、ミューズ・クリエイションのメンバー始め、多くの友人知人、そのご家族が感染しています。
症状は、個々人によって異なります。飲んではいけない解熱剤を服用するなど、初期の対応を誤ったため、重篤な症状に陥った人もあれば、駐在生活中に2度も感染した人もいます。
その年、その年で、多い少ないの傾向はあるものの、ほぼ毎年、誰かがどこかで、患っているデング熱。防ぐ方法は「蚊に刺されないようにする」以外にありません。
とはいえ、蚊から完全に隔離されるのは難しいものです。日頃から体調管理を心がけ、万一、デング・ウイルスを持った蚊に刺されても発症しないだけの基礎的な免疫力を持っておくことが望まれます。
なお、わたしがデング熱を発症したのは、狂犬病注射を打った直後かつ、更年期障害で体調が悪い時期と重なりました。弱っているときほど、注意が必要だったと思われます。疲労が募っている人、ストレスが溜まっている人、免疫力が落ちている人は、特に注意が必要です。
【デング熱とは】
●ネッタイシマカなどの蚊によって媒介されるデングウイルスの感染症。4つの血清型(1 型、2 型、3 型、4 型)に分類され、たとえば1型にかかった場合1型に対しては終生免疫であるが、他の血清型に対しては感染の可能性がある。
●2度目以降の感染時には重症化する確率が高い。比較的軽症のデング熱と、血小板の輸血を必要とする重症型の「デング出血熱」とがある。
【デング熱の症状】
●感染から3〜7日後、突然の発熱で始まる。頭痛や眼窩痛、筋肉痛、関節痛を伴うことが多く、食欲不振、腹痛、便秘を伴うこともある。
●喉の痛みや咳など、風邪やインフルエンザに見られるような症状は、あらわれない。
●最初の発熱から2、3日後、発熱が一時期おさまるものの、再び熱が上がるケースがある。発症から3〜4日後より、身体にかゆみを伴う発疹が現れる。
●これらの症状は1週間程度で消失するが、その後、倦怠感が続いたり、髪が抜けたりなどの後遺症が続くこともある。
【デング熱のまぎらわしくて困る点】
●熱が出たからと、すぐ病院に行っても、診断できない。発熱から3、4日たたなければ、デング熱であるとの診断が下せない。
●自宅で水分補給をしつつ、様子を見るしかない。ただし、迂闊に市販の解熱剤を飲んではいけない。症状を悪化させるものがあるので、注意が必要(下記を参考に)。
【坂田がデング熱に罹った際に気づいたポイント】
*発熱した当初は、まさかデング熱だとは思わなかったが、薬を飲まなかったこと、ココナツウォーターやエレクトラルなど、大量の水分を摂取していたことが、軽症の理由のひとつかもしれない。
*デング熱は、風邪やインフルエンザとは異なり、咳や喉の痛み、下痢などの症状がない。つまり、高熱が数日続いているにもかかわらず、喉の痛みや咳、鼻水などがない場合、デング熱の可能性あり。
*アスピリンや日本のロキソニンに含まれる解熱剤の成分は、デング熱の症状を悪化させるので要注意。
*高熱が出た際は、最初の対応が重要。すぐに解熱剤を飲むのではなく、まずは大量の水分(ココナツウォーターやエレクトラル、新鮮な果汁など)を摂取して安静に。熱が2、3日以上続く場合は、病院へ。食欲がなくても、滋養のあるチキンスープ、バナナやリンゴなどの果実、ヨーグルトなどを食べて体力が落ちるのを防ぐ。
*デング熱は数日発熱が続いたあと、一旦、平熱に戻る時間帯がある。治ったと油断させておいて再び発熱するのが紛らわしい。
*デング熱を発症すると、血小板の数値が下がる。血小板数値は平常が13万から35万程度。10万以下になると血が止まりにくくなる。5万を切ると自然に鼻血が出たり皮下出血が始まって紫色の斑点が出たりする。3万以下では腸内出血や血尿、2万以下になると生命も危険になることから、輸血が施される場合もあるという。坂田は5.5万程度でとどまった。
*血小板の数値を上げるらしいとドクターに教わったものは、キウイ、ザクロ、パパイヤの葉のジュース。最近ではパパイヤの葉のサプリメントも販売されている。上の写真は、我が家のパパイヤ。
※「papaya leaf dengue medicine」で検索すると、多彩なサプリメント情報が出てきます。
【そこそこ必読】
◎インド生活10年目。デング熱発症と入院の記録【軽症編】 (←CLICK!)
2005年5月、坂田がデング熱で入院した際の記録。デング熱とは関係のない記録も盛り込まれており冗長ではあるが、具体的な疾患の経緯を記録しているので、参考になる点は多いかと思う。ぜひご一読を。
【蚊対策に便利なグッズ】
◎デング熱から身を守れ! 蚊よけスプレー&クリーム (←CLICK!)
各ブランドから、蚊よけスプレーなどが販売されている。上記の記事を参考に。なお、2023年現在、蚊対策の製品は増えており、ハーバル系のものも含め、選択肢は多い。
*立体的な蚊帳(我が家でも愛用)
https://www.amazon.in/s?k=MOSQUITE+NET&ref=nb_sb_noss_2
*蚊殺生用ラケット(各種あり)
https://www.amazon.in/s?k=mosquito+racket&crid=1AYD8BAU7HU25&sprefix=MOSQUITE+RA%2Caps%2C283&ref=nb_sb_ss_sc_1_11
【蚊に刺されないようにするために】
インドの伝統服というのは、蚊を避けるに、理にかなっていると思われます。長袖のクルタ(トップ)、足首のしまったズボン(チュリダー/パジャマ)など。蚊は足元を攻めてきます。黒い衣類に近寄ってくるので、蚊の多い場所では避けた方がいいでしょう。スパッツの上から刺してきます。忌々しいです。外出時は、抗菌剤、マスク、そして蚊除けスプレーを必携で。
👆動画の編集の仕方を知らず、流しっぱなしの見苦しい動画ですが、参考になる情報、満載です😅
昨夜、久しぶりのデリーに到着した。モンスーンの影響で、このごろは風が強く肌寒い日々が続いているバンガロールから、一転しての蒸し暑さにクラクラする。
今年1月、デリー宅で「京友禅サリー展示会」を実施するために訪れた時は、寒さに震えていたのだが、一転しての夏。今回は、週後半に開催されるカンファレンスに合わせて来たこともあり、7月の蒸し暑さを避ける余地はなかった。
久しく快適な高原気候に甘やかされているので、ちょっと不都合な気候にも心が乱されていけない。思い返せば、7月のデリーを訪れるのは、2001年に結婚式を挙げたとき以来、22年ぶり。このごろは、過去が近い。
さて、5月のムンバイ旅行と同様、今回のフライトも敢えて「VISTARA」を選んだ。バンガロール空港の新ターミナル(ターミナル2)を利用したいがためだ。まだ全面的にオープンしていないので、施設や店舗も完成しておらず中途半端で、乗り入れている航空会社も一部。ゆえに、込み合うことなく、ゆったりとしているのがいい。
ところでVISTARAは、タタ・グループとシンガポール航空との共同出資による運航ブランドで、2015年に就航を開始した。サンスクリット語の「無限の広がり」を意味するVistaarから命名されたという。美しい名前だ。
昨日は、少し早めに空港へ。毎度おなじみ、ラウンジではついつい食べずにはいられないマサラ・ドーサを夫婦揃って食す。注文の決め手は「クリスピー」に焼き上げてもらい、マサラ(スパイス)風味のジャガイモは、ドーサに巻き込まず「サイド(横に添える)」の2点。あくまでも香ばしいドーサが好きな我々なのだ。細かいのだ。
軽食を楽しんだ後、ターミナル内を散策する。まだ未完成の店舗が目立つが、それでも、国内線でこれだけの飲食店やブティックが揃っていることに感じ入る。アーティストたちの作品もまた、シンプルなターミナルに品良く彩りを添えている。
いくつもの飲食店が並ぶなか、懐かしのジョニー・ロケッツの店舗を見て、一気に記憶が20代に遡る。
ロサンゼルス発のこのブランド。わたしが初めての海外旅行でロサンゼルス郊外にホームステイした1985年の翌年にオープン、その後、わたしが就職で上京した1988年の翌年には六本木店がオープンした。
鈴木英人、村上龍、ナイアガラ・トライアングル、大瀧詠一……。我が青春の記憶が芋づる式に蘇る。
やはり上京していた高校時代の男友達と共に、六本木店を訪れてビーフたっぷりビーフバーガーを食べたことを、ついこの間のことのように思い出す。「つなぎ」のほとんどない、ビーフがちの「肉肉しい」ビーフバーガー。日本のバブル経済がピークだったころに誕生して、多分、泡のように消えた。
インドでは、実は10年前にデリーのモールにオープンしていて、そのときも懐かしく思ったが、気づいたら消えていた。今、再びバンガロール空港に「着陸」したようで、インド市場の撤退&再進出の物語も面白いと改めて思う。
ちなみにKFCのインド1号店が開店したのは1995年のバンガロール。しかし当時は、店頭での反対運動や破壊活動が発生して撤退している。鶏肉が化学物質漬けだとか、インドの食の伝統を侵害するといった真偽が定かではない悪評によるものらしい。
しかしながら、10年後の2005年。KFCは再度インドに進出。以来着実に店舗数を増やしてきた。今ではそんなことがあったことが信じられないほどの人気ぶりである。ベンガルール(バンガロール)国際空港のCEOであるHari曰く、同空港ターミナル1のKFCは、アジア最大の売り上げだと話していた。インド市場の変貌ぶりを物語る話だ。
それはそうと、昨日の我がフライト・コーデは、先日ブリゲイドロードのADIDASで、衝動買いした足長効果抜群の上下。ド派手ピンクがかわいすぎる。わたしはスポーツウエアが大好きだ。化繊は苦手だけど、ジャージーだけは例外。たいして運動をしてなくても、死ぬまで体育会系ファッションも貫きたい😆
バンガロール空港では涼しい顔をしていたが、デリーに降り立ち、空港のパーキングロットをウロウロするうちにも、蒸し暑さがこみ上げて来て、顔がテカる。それにしても、かなり目立つピンクだな。色違いも欲しいな。
✈︎数百年先の未来が見える! 再誕する緑の空港で、わたしたちの木を植える。
https://museindia.typepad.jp/2022/2022/10/future.html
✈︎バンガロールの新しい玄関口。ターミナル2の開港式典へ!
https://museindia.typepad.jp/2022/2022/11/newera.html
The day before yesterday, I met Asako (Asha) and her family for the first time in a year. Asako’s diary written in her younger days was translated into English by her granddaughter-in-law, Tanvi, and published at the end of last year. I attended an event held to commemorate the publication. The book is a clear record of those days.
Asako was born in Kobe, Japan, to Indian parents who fought for India’s independence during British rule. She is a woman who seems to symbolise the cooperation between India and Japan during the Second World War.
She wished for the independence of her mother country, which she had not yet seen, in the image of her parents, who were instrumental in Subhas Chandra Bose’s efforts to work with the Japanese Army. With a burning desire, she volunteered for the ‘Indian National Army Women’s Corps’….
◉The War Diary of Asha-san : From Tokyo to Netaji’s Indian National Army
https://harpercollins.co.in/product/the-war-diary-of-asha-san/
【Youtube Video】STORY OF ASHA: Born in Japan. Fought for Swaraj with Netaji.
インド独立の志士「朝子」を通して知る日印の絆
This video was made by me last year. It is based on a conversation between Asako-san and myself. Through the experiences of Asako and her family, I explain the relationship between the INA and Imperial Japanese Army, and Subhas Chandra Bose in an easy-to-understand manner. Please take a look.
このビデオは、昨年、わたしが作ったものです。朝子さんとわたしの対談を軸に、構成しています。朝子さんとそのご家族の経験を通し、インド独立軍と日本の関わり、スバス・チャンドラ・ボースについてを、わかりやすく解説しています。ぜひご覧ください。
インドでの日常生活においては、深い物語への扉がそこここにある。うっかり開いて奥を覗いてみようものなら、ついつい引き込まれて彷徨わずにはいられない。朝子さんとの出会いもまた、そのひとつ。日本とインドの歴史を紐解けば、その豊かさに圧倒される。
一昨日、朝子さん(アシャさん)とそのご家族に、1年数カ月ぶりにお会いした。朝子さんが1943年から1946年に残していた日記の英語版が、昨年末、孫嫁のタンヴィによって出版されたのに伴い、その発表会を兼ねたイヴェントがバンガロールで開催されたのだ。
朝子さんが当時、書き記していた日本語の原本は、残っていない。しかし、彼女が記憶をたどりながらヒンディー語で書き直したものが1970年代に出版されていた。その後、朝子さんは日本語であらためて日記を書き直し、2010年に日本語版『アシャの日記』が出版されていた。
ライターであるタンヴィは、単にヒンディー語の日記を英訳するにとどまらぬ、当然のことながら、時代考証にも力をいれていた。当時の日印の状況について、読者が理解できるよう、朝子さんの一家が日本に暮らした背景も冒頭にて言及している。
タンヴィの後書きによると、彼女はインド系米国人作家のジュンパ・ラヒリの「翻訳の仕事は、作家になるための修行である」といった主旨の言葉に影響を受けて、このプロジェクトに取り掛かったという。ちなみに米国在住時代に、わたしはジュンパ・ラヒリの作品が好きで、複数冊、読んでいた。この話になると、また長くなる。
ともあれ、この日は、朝子さん、朝子さんの息子のサンジェイ、タンヴィ、そして彼女のライターの師匠である作家、Anita Nairが登壇しての、トークが開かれたのだった。
折しも今からちょうど1年前、わたしは日本に一時帰国していて、『インド独立の志士「朝子」』の著者である笠井亮平氏と、笠井氏が朝子さんのことを知るきっかけとなった日経新聞の岩城聡氏とランチを共にし、その後、蓮光寺にあるスバス・チャンドラ・ボースの碑を詣ったのだった。
……あれもこれもと、書きたいことが募るが、尽きない。ひとまずは、昨年作った動画と、朝子さんに関する出来事をまとめたブログをここに残しておく。インドと日本の歴史の一端を知るのに役立つと思われるので、ご覧いただければ幸いだ。
🇮🇳🇯🇵一年ぶりに再会! 朝子さんとそのご家族。日本とインドの歴史に思いを馳せるゆうべ。『アシャの日記』英語版の出版記念イヴェントへ。
I made the video of my recent meeting with Asha-san. At the end, there is a message from Asako to the younger generation. Please take a look.先日、朝子さんにお会いした時の動画を作りました。最後に、朝子さんから若い世代へ向けてのメッセージがあります。どうぞご覧ください。
【深海ライブラリ・ブログ】朝子さんに関する記録のまとめ
https://museindia.typepad.jp/library/2022/03/asako.html